1月17日

2018/1/18
1月17日、阪神淡路大震災のメモリアルディである。
23年前、その日その時は京都の8Fのマンションだった。夢の中でムキムキのマッチョ6、7人に寝ているベッドを取り囲まれ、揺さぶられる夢で目が覚めた。夢ではなく現実に揺れを感じていた。慌ててテレビをつけた。各地の被災状況が報道されていた。当時京都でサラリーマンをしていた私は、同僚たちが職場に出勤するのは難しいかもな、こういう時は京都在住の自分が頑張らないとな、と考えながらテレビを見ていた。2時間が過ぎ、京都ではライフラインの影響はなくシャワーも浴び、さあ出勤しようと玄関の鍵をかけ、エレベーターの前まで行って、エレベーターの電気が消えていることに気がついた。そりゃ、止まるよな、あれだけ揺れたんだから。。。冷静に考えれば当たり前のことだった。
車いすの私はエレベーターが動いてないと、自宅マンションから出ることはできない。すごすごと部屋に戻った。エレベーターを管理会社に電話をかけてみるが、繋がらない。そりゃそうだ、あっちもこっちも止まってるんだろう。きっとしばらくは繋がらない、エレベーターも動かないだろう。そう判断した。
職場に電話をする、ここは幸いにも簡単に繋がった。上司にエレベーターが止まって家から出れないこと、エレベーター管理会社にも電話が繋がらないことを伝える。エレベーターが動いた時点で出勤しますと伝えたが、どうなるかはわからなかった。とりあえずお湯を沸かし、コーヒーを入れ、テレビを再びつけ野次馬的に情報収集した。
昼過ぎにようやくエレベーター管理会社に電話が通じた。エレベーターは順次復旧作業中で、うちのマンションがいつ復旧するかはわからないとのことだった。今日の出勤は諦め、自宅で刻々と更新される被災状況を見守ることになった。
私は被災しなかった。エレベーターは止まったが、その日の夜には動き始めた。大きく揺れはしたが、部屋に置いてあったCDタワーが倒れたぐらいで、何も壊れなかった。夜には、当時の一緒に芝居を創っていた時空劇場のメンバーが劇団会議のためにうちに集まってきた。燃える長田町の空撮映像をテレビで見ながら、犠牲者の数が少しずつ増えていくのを見守っていた。関西にはいたが、震災はどこか遠いところの話だった。

深津篤史氏にとっては震災は大きな出来事だった。彼の震災後の作品を見れば明らかだ。乱暴な言い方をすれば震災が劇作家深津篤史をつくったとも言える。
1月17日、2018年のこの日、伊丹アイホールで深津の戯曲「blue film」が樋口ミユ氏の演出で上演された。この日、一回こっきりの上演である。この日に1日だけに的を絞って作品を創るという所に、まず樋口氏のスゴさを感じた。しかし、それ以上にこの日の上演は素敵だった、素晴らしかった。深津戯曲がPlant M、樋口ミユの作品として昇華し、普遍性を獲得していた。樋口氏と一緒に芝居を創り続けている、出口弥生氏、ののあざみ氏の存在感がよかった。そしてコンブリ団にも出演してくれたことのある橋本浩明氏が震災を生き延びてしまった老教師をみごとに演じていて、とても良かった。そうそう橋本氏はPlant M No.11『 君ヲ泣ク』の時も素敵だった。

実は今年初観劇。素晴らしいものと劇場で出会えました。
樋口氏の演出する舞台に、いつかは立ってみたいなぁ。←これは欲望。

観劇後、劇場を後にし、深津との思い出に一人浸ろうかなぁと、彼が馴染みにしていたとある飲み屋へ向かおうしていたら、魔女たち(ごめんなさい)に捕まり、伊丹にある深津のお気に入りだったという焼き鳥屋に連れて行かれ、そこには偶然にも、すでに妖怪(これまたごめんなさい)が二人待ち構えており、美味しい焼き鳥と〆のスープに舌鼓をうち、浸ることはできなかったが、いい1月17日を過ごせました。
こんな風に1月17日を過ごすのは初めてのような気がする。
これもまた、良し。

最後にもう少し。
記憶は改ざんされる。自分に都合の良いように改ざんされる。ひょっとすると、私の1月17日の記憶は改ざんされているのかも知れない。それでも、1月17日を迎える度に、この記憶を呼び覚まし、この先も生きていくのだと思う。
そして、そんな日は1月17日だけでなく、きっと何日もあるのだ。